岡山城~江戸から現代

岡山城のなりたち(江戸時代~明治時代)

宇喜多直家の子、宇喜多秀家は本能寺の変で織田信長が倒れてから、豊臣秀吉のもとで岡山城57万石の大名へとなり、秀吉の晩年のときには秀家は五大老の一人となり、まさに絶頂期を迎えています。ちなみに秀吉が進めた朝鮮出兵の時には、主力として渡海しています。しかし、秀吉の死後1599年(慶長4年)にお家騒動が起きましたが、これを機に宇喜多氏の力は急速に衰退していきます。そして1600年(慶長5年)の関が原の戦いの時には、石田光成に同調して西軍の主力のひとりとなり、東軍に敗北して所領を没収されました。

江戸時代

1600年(慶長5年)に、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦った宇喜多秀家は、八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となりました。宇喜多氏に代わって、小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城しました。

小早川秀秋は本丸中の段を拡幅して、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行いました。この外堀工事には、農民だけでなく武士も使役したため、わずか20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれています。その他にも、小早川秀秋は、岡山藩主なってから、検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めたといいます。

1601年(慶長6年)には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされていますが、これは大納戸櫓と呼ばれていて、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓でした。小早川秀秋は、2年後の1602年(慶長7年)10月に岡山で急死しましたが、跡取りがいなかったため小早川家は断絶しました。

1603年(慶長8年)に、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男の忠継に与えられましたが、まだ5歳という幼少ということもあり兄の利隆が「備前監国」として代政しました。池田利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われています。1613年(慶長18年)に16歳の時に池田忠継は岡山城に入りましたが、1615年(慶長20年)に17歳で死去しました。

1615年(元和元年)に、亡くなった池田忠継の弟・忠雄が淡路島から31万5千石で入封しました。「岡山城」を幕府の格式に見合った城とするために、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張して、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。また大手の南門を造り替えて、城下の西端を限る用水路の西川を整備しました。ここで、岡山城の縄張りが完成しました。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃に創建されたとされていて、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てになっています。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えます。

江戸時代の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内と言う配置になっています。

本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数ありました。石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれていて、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地でした。三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国の往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていました。三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地になっていて、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていきました。

1632年(寛永9年)池田忠雄の子・光仲が鳥取へ転封しました。それに入れ代わって、鳥取から池田光政が31万5千石で入封しました。池田光政は池田利隆の子で、姫路城で生まれましたが、父の池田利隆の死後、1615年(元和元年)に鳥取城主となっていました。それ以後の幕末まで、池田光政系の池田氏の居城となりました。

1669年(寛文6年)~1686年(貞享3年)の17年間ににかけて百間川の改修整備が実施されました。1687年(貞享4年)からは、光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園を造営します。後楽園を造営したのには、周囲を土塁と竹垣で囲んで、庭園の形をとりつつ岡山城を守る郭の役割を期待していたとされています。後楽園も岡山城も、ともに郡代の津田永忠の手によるもので、永忠は閑谷学校(しずたにがっこう)、藩の新田開発などにも手腕を発揮しました。

明治時代

1869年(明治2年)の版籍奉還によって藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられました。そして岡山城は岡山藩の府城とする役割を終えて兵部省の管轄、つまり存城となりました。1873年(明治6年)の廃城令によって順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、1882年(明治15年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すだけになりました。1890年(明治23年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後に、池田家は岡山県に提供して、1896年(明治29年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられました。随所にあった堀の埋め立ては何度かに分けて行われ、こうして昭和初期頃までには城跡と見受けられるのは本丸を残すだけになり、五重の濠に囲まれた巨大な城郭は市街地へと姿を変えることになりました。

昭和時代

  • 1931年(昭和6年) ・・・ 岡山城の天守が、国宝保存法に基づいて当時の国宝に指定されました。これは現行法での「重要文化財」に相当します。
  • 1933年(昭和8年) ・・・ 月見櫓、西之丸西手櫓、石山門が国宝保存法に基づいて国宝に指定されました。
  • 1945年(昭和20年)・・・ 第二次世界大戦時の、6月29日の岡山空襲で天守・石山門を焼失しました。
  • 1950年(昭和25年)・・・ 文化財保護法の施行によって、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定されました。
  • 1964〜66年(昭和39年〜41年)・・・ 天守を鉄筋コンクリートにて再建すると同時に、不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も再建しました。現在の天守は瓦に桐の紋が使われるなど、宇喜多秀家の時代のイメージで再建されています。
  • 1987年(昭和62年)・・・ 「岡山城跡」として史跡に指定されました。

平成

  • 1996年(平成8年)・・・ 岡山城の築城400年記念事業として、創建当時の天守には金の鯱が載っており金烏城と呼ばれていたとの伝承があるため、鯱に金箔を施しました。
  • 2006年(平成18年)・・・日本100名城(70番)に選定されました。
  • 2014年(平成26年)・・・1月21日までに行われた本丸下の段での発掘調査で、軍事倉庫として使われたとみられる「槍櫓(やりやぐら)」と「旗櫓(はたやぐら)」の遺構が出土しました。また「御城内御絵図」(1700年作製)にはない石段跡も見つかりました。

岡山藩主
~後楽園・岡山城の成り立ち~

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