江戸初期の名君として

池田光政の評価と人物像

池田光政は、江戸初期の名君としてとても名高い人として知られています。様々な資料で池田光政の名君ぶりの逸話が残されてはいますが、そこには名君としての光政を強調するために書かれている点を考慮して読み進めるほうが良いでしょう。その点を考慮しても、間違いなく池田光正は名君であることは間違いありません。

光政が岡山藩の藩主として治世したことは、後世の岡山藩の模範とされました。幕末期の池田茂政や章政たちは光政の偉業を倣って幕末の動乱に対処するべく決意表明しているほどです。

江戸幕府はというと、光政を恐れていました。幕府が朱子学を推奨しているのに対して光政は心学にこだわっていました。そのため大老の酒井忠勝は、1652年(承応元年)9月に光政謀反の風説を断じて光政に心学をやめるようにとの警告をしましたほどです。

板倉重宗は心学に深い関心を寄せていたため光政に対して理解もしていましたが、光政に賛同しながらもその政治的地位から自重するように求めていました。また承応の変が起こった際には、別木庄左衛門ら一党の詮議で尾張藩や紀州藩、鳥取藩そして光政の岡山藩と共謀して謀反を起こそうとした、とまで語って、特に光政については旗頭に擁そうとまで計画していたと語ったため、幕府側は光政の子・綱政と弟の恒元を呼んで訓戒したほどです。ただし、幕府にも光政の良き理解者は存在していました。久世広之などは光政の良き学問上の友でもありました。

人物像

当時としてはかなりの学問好きでした。光政は幼児期から非凡な所があったようなので、その非凡さを家康にも才能を認められるほどでしたが、これには生母の鶴姫と、養育を努めた吉田栄寿尼(光政の曽祖父・恒興の重臣・吉田甚内の妻)や下方覚兵衛(小早川秀秋の旧臣)の尽力があったといいます。

光政の通称は新太郎と言います。1626年(寛永3年)に左近衛権少将に任官すると新太郎少将と称されて光政自身もその名称を好んで終生にわたって使っていました。しかし大大名の池田家当主が通称を用いるのはかがなものか?!という意見があり、ある人から備前少将とされてはどうかといわれました。光政は「近頃江戸の町では鍛冶職人から鏡磨までが大和守とか用いている。名前などに大して望みなどなく、また有難いとも思わぬ」と答えたといいます。

14歳か15歳の頃に、光政は京都所司代の板倉勝重に治国の要道について訊ねたところ、勝重は「四角い箱に味噌を入れて丸い杓子をもってとるようにすればよい」と答えました。光政は「隅の行届きがたきを如何し候べき」と訊ねました。勝重はその質問で、光政が明敏な君主であると察して、「貴殿のような大国の政はそのように厳重なやり方だけでは収まらぬ。国事は寛容の心をもって処理せねば、人心を得ることはむつかしいものである」と答えたといいます。のちに光政はこの勝重の教えをよく守って名君といわれるまでになりました。

光政が閑谷学校を訪れた時に、和気郡のある村の賤民がかなり遠くから光政の来訪を出迎えていました。光政はその様子を見て「あの者達は?」と家臣に質問すると「あれは卑賤の民で、奴らは猪や狸を剥ぎ肉食をする不浄の者どもです」と答えましたが、その答えを聞いて光政は賤民を差別する家臣たちに対して、激怒しました。そして賤民である、彼らに光政の近くに寄ることを許したといいます。また、この事で賤民の事に関心を抱いた光政は、同じ年の末に「彼らの差し出す年貢を如何している」と役人に質問すると、「奴らは不浄なので年貢は藩庫や知行米には廻しておりません」と答えました。この答えを聞いて光政は、役人を叱り付けてその心得違いを諭して、今後は彼らを一般の百姓と差別しないように命じたといいます。

光政は馬の目利でもあり、江戸の浪人で谷田加介という者が江戸藩邸に馬を見せに来たときに、側近がその馬を「おろし」と見立てましたが、光政は「浮足」と見立てました。浪人の谷田は「この馬が浮足と見定めたのはあなたが初めてです」と答えて感服しました。のちに谷田は光政が200石で召抱えようとしたときに、他家が400石を出して谷田を召そうとしましたが、谷田は「知行は少なくても、目の明たる旦那にてなければ奉公面白からず」として光政に仕官しました。

光政は家臣が自分を諌める事を推奨しました。ある寒い日の夜に、蜜柑を食べていた時に侍医の塩見玄三が「冷たい物はお控えあれ」と忠告したので従いました。のちに光政は老女を呼んで「玄三の忠告くらいは自分にもわかっている。だがわかっていると言えば今後、誰も私を諌めなくなるであろう。だから口に出しかかっていた言葉を抑えたのだ」と述べています。他にも家臣の池田出羽などを呼んで自分に悪事があったら遠慮なく諌めるように求めています。

光政は生母福正院への孝養が厚くもっており、1672年(寛文12年)に福正院が病気になった時には、光政は昼夜服も変えずに側を離れず、食事は自らが試食したものでなければ通すことを許さなかったといいます。

政治面

光政の財政政策は一貫して倹約です。光政自身も質素な衣服を用いたりしていました。次男の政言がビロードの傘袋を供の者に持たせているのを見て「大国を領する人の傘にや、他所の者にてあるべし。我らが行列に混雑致さざるように」と注意しました。このため政言は、その夜に傘袋を取り替えたといいます。

3男の輝録が無断で分限に過ぎる長屋を普請した際には、怒って数日の間対面を許しませんでした。輝録は父の怒りを知って質素なものに作り変えたといいます。しかしどれだけせっせと倹約しても、幕命による手伝いや経費などで出費が重なるため、岡山財政は承応3年の時点で銀3526貫目の赤字だったため、家臣の俸禄を下げたり借財して補っていました。借財はしても、百姓に負担を強いたりすることはほとんどりませんでした。年貢を上げることも、ごくわずかだったといいます。

男色をとにかく嫌い、光政は同性愛を激しく弾圧しました。光政にとって、男色はかぶき者と同列の存在にあったため、男色は断じて許すべきではないものとして、光政は男色を「大不義」と呼んでいました。1658年に、男色が原因で死者が出る刃傷沙汰が起こりました。関係者が切腹や追放などの処分を受けたことを契機として、光政は男色の規制を強化して、男色があった場合迅速に家老に連絡するよう命じました。光政にとっては、男色を規制することは彼の信条とする「仁政」であったといえます。

光政は農政に関しても造詣が深い逸話が残されています。ある年のこと、赤坂郡で狩をしたあと郡内を巡視しましたが、このときに百姓を集めて芋の栽培を奨励したといいます。また巡視の際に、群奉行に対して稲の品種について訊ねましたが、郡奉行は答えることができなかったため、学問に精通していた光政は品種を見抜いて百姓に尋ねると、百姓はそのとおりと答えました。光政は品種も知らない奉行に嘆いたといいます。

また鷹狩のあとに、御野郡で誤って稲穂を踏み倒してしまうと、光政は稲穂を紙でくくり合わせて謝罪したといいます。また泥棒が竿にかけてあった肌着を盗もうとして捕縛されたときに、泥棒は罪を軽くしてもらおうと「肌着の下のねぎを盗ろうとした」と述べましたが、光政は激怒して泥棒を入牢させたといいます。のちに光政は百姓保護のために、田地売買の統制令や貧農没落の阻止に努めています。

学問

光政が14歳の頃に、寝所に入っても容易に眠れず暁になってまどろむ状態が続いていました。ところがある夜から熟睡するようになったため、近侍がその理由を訊ねると、「私は父祖のおかげで大国の主となった。だがこの大国と民をどう治めればよいかと悩んで眠れなかった。だが昨日、論語を読んで民に教育することが大切であることを知った。そのおかげでよく眠れるようになったのだ」と答えました。これは光政が学問に目覚めたことを示す逸話として残されています。

家臣の池田出羽が「学問など何1つとして役に立たない」と言うのを聞いて光政は出羽を呼び出して、「学問への志がないのならそう思うのは当たり前だ。お主が心学を習得するよう意欲を出せば、学問の何たるかを理解できるであろう。もう少し本気になって学問をせよ」と、家臣にはあくまで自発的な修学を推奨しており、光政が家臣に学問を押しつけるような事はしませんでした。

光政は熊沢蕃山の提言で陽明学を修めようとして近江の中江藤樹を招聘しようとしましたが、藤樹は老母の病を理由に断りました。この返答で、光政自身も母を敬愛しているためますます藤樹を気に入って、何度も手紙を交わして意見交換したり、参勤中に近江に立ち寄ったときは藤樹を歓待して話を交わして、藤樹が亡くなった後には位牌を西の丸に祀るほど尊敬したといいます。

岡山藩主
~後楽園・岡山城の成り立ち~

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