ももたろうさん~「きびだんご」くださいな

吉備国

桃太郎さんお腰につけた「きびだんご」ひとつ、わたしにくださいな。思わず口ずさんでしまう桃太郎さんのきびだんご。この「きびだんご」は「吉備団子」と漢字では書きます。もちろん言わずと知れた岡山県を代表するお土産の『吉備団子』ですが、この『吉備』というのは古墳時代には既に「吉備国」と呼ばれていました。吉備国だった岡山県の県内には大型古墳があるので、かなり強力で強大な権力が存在していたと考えられています。

桃太郎のお話は室町時代に広がりました。吉備団子と桃太郎のお話は直接的な関係はありませんが、あるお店の主人が桃太郎の扮装(今で言うコスプレ)をして、「日本一の吉備団子」とのぼりを立てて広島にある港に積極的に売り込みをしたことから、一気に全国区へと岡山を代表する名物として有名になり、ドラえもんの道具にも「桃太郎印のきびだんご」という道具もあるほど岡山を代表するお土産となっています。

古代の吉備国は、筑紫(現:福岡)出雲(現:島根の東部から鳥取の西部)大和(ヤマト朝廷の場所は諸説あり)越(福井県敦賀市から山形県庄内地方)毛野(現:群馬県太田市)などと並ぶ有力な勢力の一つでした。吉備国は、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部にまたがる日本の地方国家でした。『古事記』中巻で、孝霊天皇の段などには兵庫県の加古川以西が吉備であると捉えられる説話があるため、加古川を国境としていた時期があると考えられています。

今では「吉備」といえば、岡山のことを指しています。

吉備国の歴史

吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれます。かなり大きな勢力を持っていたと推測される理由には、巨大な古墳文化があるからです。また、優れた製鉄技術があったため、それが製鉄という技術が吉備が強国となる原動力であったとされています。

ある説によると、吉備の勢力は、出雲征服を試みますが出雲征服は完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗しました。それ以後は、ヤマト政権と同盟して列島の統一と治世に貢献して、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視されています。河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇っていましたが、巨大な勢力を有していたことがヤマト政権の警戒を呼んだのかもしれませんが、後にヤマト政権の謀略などで吉備の勢力が削減されていったとも言われています。

吉備の古墳時代

吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていたため、吉備内海とも呼ばれています。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られました。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られていて、赤く朱で塗った大きな筒形の土器でした。2世紀初めから3世紀中頃の弥生時代後期の後半につくられて、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しています。それから後に埴輪(はにわ)として古墳時代に日本列島各地に広まっていきました。

5世紀に雄略天皇は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で吉備に屈服を迫りました。

436年の吉備下道臣前津屋の乱と、463年の吉備上道臣田狭の乱では「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけることになり、さらに雄略の死の直後の吉備稚媛(雄略妃)と星川稚宮皇子(雄略の息子)の乱(479年)でまたしても吉備の勢力を削減させることにりました。

6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られています。塩の産地として、吉備では弥生時代からの塩が生産されていました。さらに6世紀後半には鉄生産が開始されました。造山古墳、作山古墳は築造当時の日本列島で最大級になっています。そして、現存する日本の古墳のなかでも第4位と第9位の規模をもっているため、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものになっています。

これら古墳の前にあたる前方後円墳時代の吉備と、7世紀の吉備地方には、複数の豪族が並び立っていたと考えられています。造山古墳・作山古墳を統一的な吉備政権の存在の証とする説と、この時代にも複数の有力豪族の連合政権であったとする説があります。

吉備の分国

689年に、持統天皇が「飛鳥浄御原令」の発布をしたことで備前国、備中国、備後国に分割されました。それから遅れること713年の和銅6年に備前国から美作国を分立させました。

吉備国守、吉備大宰、吉備総領は、日本書紀、風土記、続日本紀に散見される官職になっていて、吉備国分割の前後に設置されたと考えられています。大宰府の前身とおぼしき筑紫大宰とともに、中央から派遣されて、管下の複数の国の外交と軍事を統括する任務を負ったものと推測されています。

史料に見える最後は、700年の文武天皇4年の吉備総領任命記事になっています。これから後の現代に至るまで、吉備四国は、ひとつとして統治されることはありませんでした。備前と美作、備中、備後の3つに分かれた状態が明治まで続くことになります。この分裂状況の余波は、同じ岡山県となっている岡山都市圏と倉敷都市圏の対立といったことや、室町時代以降に備後が安芸と一体化するという形で、現在まで影響しています。

豪族の吉備氏

吉備国の豪族は吉備氏です。吉備氏は5世紀ごろに説くには吉備国で反省した豪族で、吉備国を古代の有力地方国家に発展させることに貢献しました。そして、吉備氏はヤマトの豪族たちと同盟して、日本列島の統一と発展に寄与したといえるでしょう。

吉備国内の全国第4位の造山古墳・全国第9位の作山古墳といった巨大前方後円墳は、その首長の墓として吉備氏の勢力の大きさを今に伝えています。しかし、日本列島が統一していく過程で「中央」となったヤマト政権の中央集権策によって、『日本書紀』の記述によると雄略朝期に吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、吉備稚姫を母とする星川稚宮皇子など数度にわたる「反乱鎮圧」の名目で勢力を削がれていきました。

奈良時代以降の吉備氏

吉備氏の7世紀以降では、分派していきます。上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派していき、姓(かばね)としては、臣(おみ)または朝臣(あそみ)を称しています。多くは国造や郡司などの在地の有力豪族でしたが、中央貴族として立身した者も少なくありません。 笠垂は古人大兄皇子の反乱を告発して名を上げて、上道斐太都(ひだつ)は、橘奈良麻呂の乱に功績がありました。 下道真備(吉備真備)は唐に留学して、唐から帰国してからはブレーンとして朝政に参画して重用されています。また、臨済宗の開祖栄西は、吉備津神社社家賀陽氏の出身です。

岡山藩主
~後楽園・岡山城の成り立ち~

おしらせ
花園不動産ではご登録いただきた会員様それぞれに希望条件にマッチした物件をメールでお知らせします。半田の土地あなたの物件探しをサポートいたしますのでお気軽にご登録ください!